いつか 時が経てば
忘れられる あんたなんか
中島みゆきの 「根雪」。 この曲が いつのものなのか全く知らなかったが 最初に
聴いたのはカラオケだった。4~5年前 友人と俺とカミさんで カラオケに行って
何となく “悲しい歌シリーズ” になった。悲しい歌と言えば 中島みゆき である。
中学生の頃 3つ上の姉が 中島みゆきをよく聴いていて 隣の部屋から聴こえる
「化粧」 や 「玲子」 を とんでもねぇ暗い曲だと思っていた。ただ そう思いつつも
心にズッシリ残ったわけだから 俺の根底にも 中島みゆきが存在するのだろう。
そうして悲しい歌シリーズになったカラオケで まず俺が中島みゆきを歌ってみた。
カミさんはユーミンか何かだったと思う。そして友人 (同世代のおっさん) が
おもむろにマイクを持った。モニターに映るタイトルは 「根雪」。知らない曲だった
多分 その時も夏で 「真夏に 根雪かよ!」 と突っ込んだ記憶がある。
だが 始まったイントロは静かで 自然と聴き入ってしまう。メロディも同じく静かで
黙っていても 歌詞が 心の深くに染み込んで来るような そんな曲だった。
中年のおっさんが とつとつと歌う中島みゆきは どこか哀愁を漂わせた。
彼の過去に どんな事があったか知らないが きっと根底にある歌なのだろう。
俺は画面だけをジッと見た。そして そこに流れる
歌詞 を眺めていた。
誰も気にしないで 泣いてなんか いるのじゃないわ
悲しそうに 見えるのは 町に流れる 歌のせいよ
そんな出だしで始まるその歌は “みゆき節” というのか 別れを情景込めた詩で
作られている。ただ 中島みゆきの別れをテーマにした曲は もっとドロドロしく
強烈なフレーズが使われる事が多く 少しソフトな みゆき節かなと思っていた。
だが サビの最後 たった1つのフレーズが 曲の全てを みゆき節に変えていた。
いつか時が経てば 忘れられる “あんた なんか”
この1行が歌の最後に出てくるサビ。正直 「いつか時が経てば 忘れられる」 は
よくあるフレーズだろう。ミスチルも使いそうだし コブクロもゆずも使いそうだ。
だが中島みゆきは それに 「あんた」 と 「なんか」 をつけた。そこがみゆき節の
真骨頂でもある。「あなた」 でも 「君」 でも 「あの人」 でもない 「あんた」。
そしてトドメを刺すように続く 「なんか」。この最後の たった1つのフレーズが
中島みゆきの中島みゆきたる所以(ゆえん)ではないだろうか。
別れは悲しく だけどいつか忘れられる という気持ちに あんたなんか をつける。
そこにある 残る想いと前へ進もうとする気持ち。混合する想いの中に 悔しさや
悲しさや 哀愁や逞しさまでも たった1フレーズで表現されているのだから 凄い。
この 「根雪」 という歌を聴いて 改めて 中島みゆきの才能の凄まじさを感じた。
ただ 最初に聴いた時は 才能の凄さを感じただけで 泣く事はなかった。
この歌で 泣くようになったのは つい最近になってからだ。
1年前の7月末。16年 共に暮らした猫を亡くした。
「いつかは来る」 と思っていたが いざ その日が来ると 悲しいという言葉ではなく
自分の一部を失くすような 何かを抉(えぐ)り取られたような 悲痛な想いだった。
最期の時は突然で。いつもの様に病院へ行き 診察を待ってる間に様態が急変し
あっという間に息を引き取ったという。電話でその知らせを聞き 帰るのを待った。
カミさんが連れて帰り 一番好きだった場所へ寝かせ 2人で ただただ泣いた。
花を買いに行き 何が喜ぶだろうと考えると また 涙が出た。小さな祭壇を作って
写真を立て 花を飾り 缶詰と買って来た刺身を供えた。精一杯 弔ってやろう と。
あれから1年が過ぎた。今は新しい猫もいる。
やんちゃだが思い切り愛情を注いでる。懲りずに 無防備に 愛情を注いでいる。
その怖さはあるが 家族なのだから それでいいと思ってる。こいつのおかげで
だいぶ家が明るくなったし 感謝してる。去年は全く 笑えなかったのだから。
思えば 去年は笑った記憶がない。いつも必死で 笑える余裕など全然なかった。
だが 時間が少しづつ悲しみを和らげてくれた。また猫を飼う気持ちにもなった。
いつの間にか笑えるようになった。テレビを見て 愛猫の可愛さで 馬鹿な話しで
俺もカミさんも笑えるようになっていた。良かったと思う。本当に良かったと思う。
あれから ちょうど1年の7月31日。先代猫ミィの命日。
あの日と同じように 小さなテーブルを出し 写真を立て 缶詰と刺身を供えた。
全部があの日と同じだったが 違うのは俺たちに 笑顔があった事だ。
俺とカミさんと 新しい猫ルルと 写真の中のミィ。その日 初めて2人と2匹で
晩メシを食った。もしかしたら 悲しくなるかなと心配したが そんな事はなく。
2人とも 笑いながらメシを食った。カミさんが写真に向かって 近況報告をした。
「この前ね 転んださー ここケガしたんだよ」 と 笑いながら言っていた。
俺も 「歯 抜けたんだー ここ」 と 口を見せて報告した。そしてまた2人で笑った。
何かホッとした。悲しみではなく 明るい気持ちで 命日を迎えられた事に。
いつか時が経てば
忘れられる あんたなんか
忘れていない。忘れることもない。今までも これからも。
だけど 時間やカミさんや新しい猫や友人やサッカーや その歌が 癒してくれる。
「根雪」 を聴くと いろんな事を思い出す。先代猫のミィを全力で可愛がった事
その猫が病気になり 3か月の闘病生活は夜も昼もなく つきっ切りだった事
そして最期の日。風呂場からシャワーの音と一緒に カミさんの嗚咽が聞こえた事
だけど 慰める事も出来ず 呆然としていた自分。夏の青い空と昇って行く煙。
残された闘病日記と 食べさせたかった缶詰。しばらくは2人 ただ泣いた事。
多くの山を越え 笑いながら近況報告した命日。無邪気に遊ぶ二代目 愛猫ルル。
たった1行のフレーズが いろんな事を一気に思い出させる。そして泣けてくる。
泣きうたは 誰にでもあって きっと その歌は大事なものだと思う。
知らず知らずに溜まった悲しみは 何かで洗い流さなければならないのだから
そんな時に そっと出せばいい。カラオケでもいいし 車の中でもいい iPodでも
youtubeでもいい。人に見られないよう コッソリ聴きながら 泣くのがいいと思う。
そうして 誰にも見せなかった傷を 自分で癒してやる すると 心が少し軽くなる。
泣きうたには そんな作用がある。また 泣きうたは その時々で変わるのだろう。
10代と20代では違ったし 40を越えるともっと変わる。また失恋や家族との別れ
仕事や生活での苦しさなど 様々な出来事が 泣きうたを作ってゆく。
その時々で 変わりゆく 泣きうたは 自分の成長でもあるし 老いでもあるのだ。
だから 泣きうたは大切にしたい。そこに 自分の人生の足跡があるのだから。
5年前は泣きうたじゃなかった 「根雪」。最近 増えた俺の 泣きうただ。
「いつか時が経てば忘れられる あんたなんか」 そのたった1つのフレーズで
止めどなく泣けてしまう。だけど それは 今だから泣けるのだろう。
5年前は その歌詞に何も感じなかった。1年前なら 辛すぎて泣けなかった。
だけど 何かを越えた今は 泣ける。そうして 「根雪」 は俺の泣きうたになった。
カミさんと2人で。いや 愛猫ルルの 2人と1匹で ようやく 笑い 泣ける所まで来た
それは もしかすると 幸せというものなのかもしれない。
ようやく 俺たち ここまで来たよ。ミィ。
中島みゆき 「
根雪」