日本語って ときどき変だなと思う。例えば 「いいかげん」 ってやつ。
文字にするなら “良い加減” になるわけだから “丁度良い”って事になるのだが
実際に使われる意味は 「てきとう」 とか 「デタラメ」 みたいなものだったりする。
でまた 「てきとう」 も文字にすれば 「適当」 だから 本来 適してる事象に使うべき
もののはずだが なぜか ”大雑把” みたいな意味に使われていたりする。
両方とも なぜそうなったか調べようとしたが 語源を辿るのが面倒になったもんで
その辺は 「日本語って ときどき変だな」 という いいかげんな結論で終えておく。
高校の時 期末レクレーションというものがあった。我がパラダイス学園には
期末テストが終わった後の数日 授業が無く ミニ体育祭的なものが行われたのだ
夏はサッカーやソフトボールであったり 冬はミニサッカー(フットサルではない)や
バレーを学年対抗で行っていた。中でも人気があったのは バドミントンである。
普段 行事的なものに一切参加しないオレだったが このバドミントンだけは参加し
「たぶん優勝できる」 と確信していた。理由はないが 魂は自信に満ちていたのだ
実際 1回戦2回戦と突破し 決勝まで勝ち進んだ。 が 決勝で負けた。
あまりの悔しさにラケットを折ろうとした時 体育教師から対戦を申し込まれた。
向うはバレーとテニスの顧問 いくら体育バカでも おっさんはおっさんである。
こっちは現役高校生の2人。俊敏性もスタミナも上だから 完全に楽勝と思った。
が 試合が始まってすぐ異変に気づく。こっちがいくら必死で打っても打ち返される
打っても打っても ラクラク打ち返してくる。「な なん なんだ こいつら」 と思いつつ
2人の顔を見てみると ニヤニヤ笑いながら打っていた。余裕の表情だった。
その瞬間オレはリミッターを外し120%の力を出した 禁断のパワーを出したのだ
だが 軽~く打ち返してくる。しかも ロビングで遠くに打ってきやがる オレは走る
ようやく届く またロビング オレ走る。精根尽き果てたオレは コートに崩れ落ちた。
リアル orz である。
そんなオレを見ながら 体育教師2人は 「俺らに挑戦なんぞ 10年早いわ!」 と
高笑いしながら去って行った。 いやいや あんたらが申し込んだんじゃん。
大会決勝で負け 体育教師にも負け 体中から悔しさが迸(ほとばし)ったオレは
それから血の滲むような特訓!をせずに 「二度とラケットは握らない」 と誓った。
そんな青春の汗と涙の物語である。 … と いうのは置いといて。
いいかげん本題に入ろう。
コンサドーレは “いいかげん” に勝とう。
25試合で21敗は なかなか素敵な数字で 今も軽く4連中のコンサドーレだが
正直 負け慣れた感がある。選手はどうか分からないが 少なくとも 今や自分は
負けてもそう腹が立たなくなった。おそらく深層心理では爆発しそうなぐらい
ブチ切れてるに違いないが 知らない内に自分自身で感情を捨ててるのだと思う
コンサドーレを長く応援する内 そういう術(すべ)を身につけたのだろうな。
それでも毎試合 「勝つ!」 「勝ってくれ」 「勝ってほしい…」 と願っているし
特にホームの試合は絶対に勝て!と思う。明日の大宮戦も当然 勝ってほしい。
そういう意味でも 「いいかげんに勝て!」 である。
が もう一つ “いいかげん” というものが コンサドーレにとって必要だと思える。
思うに これだけ負ける原因は 「負けが負けを呼んでいる」 のではないだろうか。
これ以上負けられない というプレッシャーが本来の力を奪ってるように思うのだ。
例えば失点の多さも 失点したくないという心理が固さを生み 余計 足が動かない
という現象になってると思う。また攻撃も同じ 失敗できない というプレッシャーが
チャレンジを失わせてるのだと思う。こうした状態を即座に改善するのは難しいが
原因が精神的なものならば やはり精神性を改善しなければならないのだろう。
じゃあ どう精神性を変えてゆくか と言えば “いいかげん” にするのである。
要するに 「ほどほどに真面目」 で 「ほどほどにテキトー」 になれば良いのだ。
コンサドーレの選手の場合 どうも真面目に取り組み過ぎる傾向があるようで
それがかえって自らの首を絞めてるんじゃないかと思うのだ。例え仕事であっても
どこかに遊び感覚は必要だろうし それがいわゆる 「余裕」 に繋がるのだと思う
要は 真面目な中に どう “テキトー” を配合するか が大事なのだ。
その加減さえ間違わなければ きっと改善されるし 本来の力も発揮されると思う。
今の状態で 余裕を持てというのは難しいだろうが 自分をコントロールしながら
どうにかして 遊び心やテキトーさを取り戻してほしいと思う。程よくではあるが。
2人の体育教師には余裕があった。俺らがどんなに必死に打っても 遊び感覚で
打ち返していた。あの時は それが悔しさを倍増させたが 今になって考えてみると
遊び感覚だったからこそ 余裕があっただろうし 簡単に打ち返せたのだと思う。
「気持ちの余裕は肉体に反映する」 という事を 知らしめられたオレだったが
まだ16のオレは そんな事分かるはずもなく ただただ悔しく 2人が羨ましかった
体育バカの2人には “いいかげん” が “良い加減” にあったから。
コンサドーレの選手にも いいかげんを良い加減で持ってほしい と思う。
切羽詰まった気持ちで試合をしてしまうと ロクな結果にならないし 見ている方も
息苦しく余裕がなくなってしまう。真剣にプレーしつつも どこかに “いいかげん”を
持っていてほしいのだ。そうすれば 見えなくなったものが 見えてくるはずである。
また我々応援する側にも “いいかげん” は 必要なものだと思う。
あまり強く向き合い過ぎれば 削られてしまう情熱もあるのだから そうならないよう
ほどほどに真面目で ほどほどにテキトーな気持ちでいる必要があるのだと思う。
大事なのは いいかげんを良い加減に配合して 情熱を保つ事なのだ。
勝利への近道はないのだが もし探すのであれば案外 身近にあるかもしれない。
例えばそれは 「いいかげんさを持つ」 事かもしれないし そうする事で本来の力を
発揮できるようになるかもしれない。いいかげんが 勝利への突破口になるのだ。
ゆえに 「いいかげん」 とは デタラメなようで 意外と大事なものなのである。
と 分った風な事を言うオレが
最もテキトーで いいかげんなのだが。
ま いっか。