夢だけど
夢じゃない今夜 金曜ロードショーで「となりのトトロ」が放映される。
毎年 夏に流される宮崎作品。アニメと言って馬鹿にできるものではない。
夢と現実が織り成すドラマは 見る側を瞬く間に引き込む力を持っている
もう20年近く前に作られた作品だが 一向に色褪せる気配はなく
時代や性別や年代を越え 人々を魅了する それが宮崎作品なのである。
”夢だけど 夢じゃない” は劇中のセリフ まさに作品を象徴した言葉である。
もしこの世の中にファンタジーがなかったら どうなるのだろう?
全ての出来事を現実として捉え 空想を排除する そこに点と点は存在するが
決して線に繋がる事のない世界がある。未来への希望というものは
空想 すなわち ”ファンタジー” があってこそのものである。
この理論をサッカーに置き換えてみよう。
ボールを蹴るという動作で 人々にファンタジーを与える
そんな事が出来る選手は ロベルト・バッジオを置いて他にいない。
バッジオのプレーはいつもファンタジーに溢れていた
一瞬の閃き そのアイデアを具現化するテクニック そして結果という現実
1本のパスに空想と現実を混ぜ ゴールという結果に集約させた。
そんなバッジオをのプレーに スタジアムが 世界が 観衆された。
忘れられないのが 98年W杯フランス大会 イタリアvsチリでのプレー。
試合開始から押されていたイタリアが 1本のパスで得点を奪った。
カウンターからマルディーニがロングボールを蹴る その先にいるバッジオ
DF2人に囲まれながらも 後方からのボールの落下点に入って行く
半身のままダイレクトで出したボールは ビエリへのプレゼントパスだった。
体の勢い ボールの勢いを全て吸収し コースもスピードも完璧なパス。
テレビで見ながら一瞬 現実感が湧かないほどのプレーだった
だが彼だけは あのロングボールを追いながら次のプレーをイメージしていた
そしてボールに触れるや否や イメージを具現化した。
あの状況 あの体勢から出たパス。 まさにファンタジー。
夢だけど =空想・想像
夢じゃない=現実・結果
この言葉の具現化を サッカーのプレーで見た。
ロベルト・バッジオと宮崎駿 この2人に共通するのはファンタジーである
現実と未来を結ぶ一本の線を描き出している。だからこそ偉大なのだ。
だが 待て。
私はひとつ重大な勘違いを犯しているのではないだろうか?
ロベルト・バッジオのプレーにファンタジーがあるのは間違いない。
だがしかし 彼自身はファンタジーではなく ”ファンタジスタ” である。
バッジオは ボールを蹴ってこそのファンタジーなのだ。
もしも本当のファンタジーを例に上げるとするならば
人そのものがファンタジーであることが重要なのだ。
生きるファンタジー。動くファンタジー。
現実としてありながら 存在そのものが空想化されている人物。
それこそが本当の 本物のファンタジーと呼べるのである
だが そんな者が この世の中にいるだろうか?
いた。
曽田雄志。
おそらく地球上全人類を調べても 彼ほどファンタジーな者はいない。
ロベルト・バッジオも宮崎駿も 言うなればファンタジスタであって
何らかの作業をしてこそ生まれるファンタジーなのだ。
だが 曽田雄志は違う。存在そのものが ”ファンタジー” なのである。
ボールなど蹴らなくても そこに居るだけでファンタジーなのだ。
それは すなわち こう結論づけされる。
曽田雄志は トトロ。
心の澄んだ人しか見えない 曽田雄志。そういう事なのだ。
幸いコンサドーレサポーターやサッカーファンは皆 心が澄んでいるため
曽田雄志を確認できる。だが腹黒い人たちには きっと見えていないのだ。
もしもあなたの周りで「何でコンサドーレは10人で戦ってるんだ?」と
聞く人がいたなら その人にはきっと曽田雄志が見えていないのだ。
どうかこれから注意深く見て頂きたい。腹黒人間を探すことができる。
曽田雄志はトトロ。そう確信すると幸せな気分になれた。
存在するファンタジー。それをこの目で捉えることができるのである。
己の心の澄みようも確認できる。それは他にない幸福なのだ。
ロベルト・バッジオも宮崎駿も成し遂げられなかった領域
ファンタジーを体現し ファンタジーに生きる男 曽田雄志。
これは札幌の いや日本の いや世界の 至宝と言える。
それを誇りに思いたい。
彼は空を飛べる。
誰よりも高く飛べる。
そして我々を運んでくれる。
そう トトロのように。
行く先は母の元であり J1なのである。