サッカーは、我慢のスポーツである。
考えてみればサッカーは変なスポーツである。 なんせ手が使えない。
ゴールキーパーとスローインは手を使ってもいいが それ以外は使用不可という
非常に理不尽な競技である。 そもそも人間は他の動物と違い 手が器用だから
火を起こせるようになったし 文明が発達し 今に至ったのだ。 なのにだ
唯一で最大の利点である手を使わない という超馬鹿げたスポーツなのである。
なにゆえ こんなルールを考えたか分からんが 責任者出て来い!と言いたい。
だが もっと分からないのは こんな理不尽なルールで こんな馬鹿げたスポーツを
多くの人が愛したことだ。
普通 人気が出るものは やって楽しいはずなのだが サッカーが世に出始めた頃
やって楽しかったのだろうか と疑問である。 例えば最初 広場みたいな所で
ボール的な何かを蹴り合っていたとしよう その時下は土でデコボコだったはずだ
今より数倍 コントロールが難しく トラップなんかできない。 また当時 パスという
概念があったかどうか不明だが 蹴ったとしても上手く相手に渡らなかっただろうし
チームワークもない。 とすれば やってた人たちは楽しかったのだろうか?
自由なはずの手が使えず 集団としての喜びもない。 なのに白熱したのである。
なぜサッカーが人気を得たのだろうか。
サッカーが人気のスポーツになった理由のひとつは 「原始的だから」 だと思う。
手を使えれば様々な事が出来るため 技術もルールも 高度で複雑になるのだが
手が使えないなら 出来る事が制約される。 となればルールは簡単になり
プレーもシンプルになる。 走る・飛ぶ・ぶつかり合う そして蹴る そうした単純な
スポーツであり それは やる側はやり易く 見る側も分かり易かったのだろう。
またシンプルな分 格闘の要素もあった。 戦闘力や闘志を競い どっちが強いか
単純に決め合ったのだ。 それは次第に 地域や集団まで巻き込む戦いになり
見るだけではなく “応援” というスタンスまで もたらせたのである。
こうした ルールもプレーも 応援という点でも シンプルで原始的なスポーツなため
男に人気が出たのではないかと思う。いつの世も男は本能的なものを好むのだ。
もうひとつ。サッカーが人気が出たのは 「不自由」 だからじゃないだろうか。
例えば右サイドから左サイドへ大きなサイドチェンジしたとする 左右90mの距離
そのパスはキックも難しく 正確に蹴れない。 もっと難しいのはトラップである
強く蹴られたボールはスピードも距離間も荒いまま向かってくる そんな時 選手は
「手が使えたら」 と思うはずだ。 それは見る側も同じで 不自由を感じる のだが
あえて そこで手を使わない事が 人間として何か尊い事をしてるような気にさせる
大袈裟に言えば 文明や発達を拒絶し 手よりずっと不自由な足を駆使した努力
あるいは 困難に挑戦し 自在に操る生き様が感動を生むのである! ・・・と思う。
いや そんな大袈裟なものじゃないが。 ただサッカーはシンプルなスポーツだけに
そこに面白さや苦しさや喜びや 尊さや進化など感じさせたりして そうしたものが
多くの人に愛された理由だと思う。 球を蹴り合うだけなのに意外と深いのだ。
ただ 手が使えないという絶大な制約は 常に 「もどかしさ」 があるのも事実だ。
サッカーは、我慢のスポーツである。
手を使えば簡単なのに使わない そこにある 「我慢」 が サッカーの本質だろう。
サイドからのクロスをバレーのようにアタック出来たら簡単なのに ヘディングする
密集したエリアを バスケのように手でパスできたら抜け出せるのに ドリブルする
相手FWを ラグビーのようにタックルできたら止められるのに スライディングする
強いパスを手でキャッチできたら楽なのに 手でシュート出来たら簡単なのに。
けれども それが出来ないからこそ 上手く出来た時の喜びが倍増するのだ。
我慢が無かったら サッカーなんてやってられない。 見てられない。
そんなもんだと思う。 我慢とサッカーは一体なのだと 最近 思うようになった。
どんなチームにも良い時も悪い時もあって 悪い時は そりゃ苦しいし不満も出る。
ただ 不満だけで留まっているならいいが それだけでは済まない人たちがいる
最近 自分の周りもそうだが チームからどんどん人が離れて行っているのだ。
本人の意思だから 引き止める事などしないが そうした人たちを見て思うのだ
負けたから 応援しないと言う人たちは 元々サッカーに合ってないのだろう と。
本来 我慢が必要なスポーツで 我慢が出来ないのだから。
多分その人たちにも言い分はあって 戦い方がとか 気持ちがと言うのだろうが
結局 それは理屈であって サッカーの本質から外れている事に変わりはない。
なら そうした人はスタジアムから去った方がいいと思う。 きっぱり去る方がいい。
本人も嫌な思いをしなくて済むだろうし 本質的に合わないのだから仕方ない。
また 応援を続ける人にとっても そうした人たちは情熱を下げる要因でしかなく
であれば 双方のために スタジアムから去った方が健全だと思うのだ。
ただ そう思うも 我慢には必ず限界点がある。
3連敗で限界に達する人もいれば 例え勝っても内容に耐えられない人もいる
限界点は人それぞれだろうが 耐性が弱い人はやはりサッカーに合わないのだ。
そして どんなに負けてもスタジアムへ通う人は 決して鈍感なんかじゃなく
自分なりに工夫して 努力して 気持ちを切らさないようにしてるのだと思う。
例え腹が立ったとしても 何かでストレスを発散したり 多少 愚痴ったりしながら
1週間で気持ちを 切り替えるのだ。 そうして そうやって そうでもしなかったら
応援なんて続けられない。 続けられるわけがない。
工夫もせず 努力もせず 早々と去った人は それでいいと思う。
合わないのだから。
コンサドーレは前節ジュビロに負け16敗目。いまだ連敗を脱する事が出来ない。
こんな状況で 去るなというのは酷だろうし とっくに限界点を越えた人も多くいる。
そうした人たちを責める事は出来ないが 「サッカーは我慢のスポーツ」 という
観点からすれば 多分違うのだ。結局 どう理屈づけようと脱落した人たちである。
そして残った人には毎回 「それでも応援するか?それでもサッカーが好きか?」
と問われ続けてる。そこでYESと答えられるかどうかだが 毎回 苦しい選択を
迫られながらも 結局 YESと答えてしまうのが サポーターなのである。
スタジアムには そんな悲しくも 強い人たちだけが 残ればいいと思う。
手が使えないスポーツ。サッカーは そんな馬鹿げたスポーツなのである。
であれば それを愛する人たちも どこか馬鹿じゃなきゃやってられないのだ。
手が使えない 点が入らない 勝てない という もどかしさに苦しみ
だけど 成功した時に喜び 勝てた時には全てを忘れるように感動する
そんな苦と楽に魅了されたヤツだけが サッカーを応援し続けられるのだろう。
だが そんな馬鹿なヤツらは
世界中に数え切れないほどいる。
愛すべき馬鹿たちが。