小倉が 引退した。
またひとつ 大切な火が 消えた。
「超高校級」という言葉がある。
文字通り高校生の中で卓越した力がある選手の事を指す。
だが その多くは高校生の中で優れている選手であって
プロの実力があるという意味ではない。超高校級=プロではないのだろう。
18才までにどれほど技術を持っていようと それが小手先のものならば
プロとして通用するものではなく もっと本質的な強さを持った選手
特に精神面の強さを持った選手が 「プロ向き」と呼べるのではないだろうか。
91年。第70回 高校サッカー選手権大会。
四日市中央工業の小倉は まさにプロの資質を持った超高校級の選手だった
183cmという恵まれた体。足下の柔らかさ。そして左足から放たれるパワー。
身体能力だけでも超高校級と呼ぶに相応しい選手ではあったが
更に優れていたのは 創造性と精神力だった。
ドリブルひとつ取っても その創造性と気持ちの強さを見ることができた。
四中工には中西・中田と優れた選手も揃い この年 選手権を制した。
92年。それはJリーグが開幕される1年前。
選手権優勝のエースは まさに鳴り物入りでグランパスへと入団した。
その年はリーグ戦が行なわれず ナビスコ杯のみの年となり
小倉は10試合に出場し ルーキーながら5得点という驚異的な活躍を見せた。
翌年から始まるJリーグを 更に期待させる選手だった。
93年。Jリーグが開幕。
だが そこに小倉の姿はなかった。オランダへと留学を申し出たと言う。
当時の事を覚えている。開幕直前のスポーツ番組だったと思うが
サッカーの特番で グランパスの選手が数人出演していた。
日本代表選手も何人かいる中 注目ルーキーとして小倉も出演していた。
「活躍が期待される小倉選手ですが 何点ぐらい取れますか?」
アナウンサーの質問に 苦笑いで答えていた
「いや…こっちでやらないんです …オランダ 行くんで」
更に「どうして?」と聞かれ
「…いやー チームから行けって言われたから…」
とホントともウソとも取れる 説明をしていた。
そんなやり取りを見て 心臓の強さが印象に残っている。
当時 アメリカW杯予選を機にサッカーブームが始まった頃
カズやラモスがTVで気の利いたコメントをする事はあっても
新人の選手が話せる機会などない。マイクを向けられたとしても型通りの
言葉しか言わないのが普通だ。だが小倉 ニヤニヤとオランダ行きを告げていた。
プレーで見せる強心臓さは マイクを向けられても変わらなかった。
そして93~94年。オランダ・エクセルシオールでプレーする。
その活躍は日本でも逐一報告され 期待は更に高まっていった。
その期待とは ドーハで泣いた日本代表の決定力
そして 96年に開催されるアトランタ五輪の決定力だった。
「小倉が戻って来れば」 それはもはや救世主を待つ合言葉になっていた。
94年。五輪代表 西野監督の要望によって小倉は日本に呼び戻される。
と同時に ファルカン監督により日本代表へと招集された。
それは大抜擢とも言える代表入りだった。
94年 アメリカW杯を直前に控え 世界中で代表試合が組まれていた
日本ではキリン杯が開催され ファルカン新監督の元
新生日本代表が作られて行く時
その切り札として小倉が召集されていた。
94・5・22 対オーストラリア戦。
初の代表でのプレー。いや小倉のプレー自体を見るのは四中工以来だった
オランダで15点を挙げ一躍注目を浴びた そのプレーは代表でも通用するのか?
大エース・カズがいる中で 小倉が自分らしさを発揮出来るのか?
興味はつきなかった。そして後半 とうとう小倉がピッチに出てきた。
小倉は変わっていなかった。いや前よりも更に躍動感があった。
確か そのワンタッチ目は サイドライン際のロングボールを
ヒールで当て 浮かせたボールで前へ出る そんなプレーだったと思う。
その大胆さと創造性は 「日本が変わる」とも思えた。
大袈裟な表現に思うでしょうが 当時 本当にそう感じた瞬間でした。
キリン杯はもう1試合組まれていたのが 対フランス戦。
カントナを中心にパパン・ジョルカエフと豪華な選手層のフランス
なす術もなく失点を重ねた。その中で唯一得点を上げたのが小倉。
代表初ゴールとなった。アシストはカズ。国立もTVの前も歓声を上げた。
このキリン杯の事だったと思うが ひとつ印象に残っているシーンがある。
フリーキックを得た時 小倉がボールへと寄って行った
だが 当時FKもPKも蹴るのは もちろんカズだった
それはほぼ暗黙の了解となっていること そこへまだ20歳の小倉が向う
周りも多少の動揺が見られた それでもカズが蹴る事に揺るぎはない
その状況に対し 小倉が不満気な表情をはっきりと表していた。
その強心臓さと言うか 活きの良さが 小倉の印象そのものだった。
その後 3試合 計5試合のフル代表経験を経て
五輪代表へと移り変わる。
「子供の頃は野球選手になりたかった」
サッカーを始めた理由は 野球のための体作りだったと言う。
小学1年で地元の少年団に入り 中学まではまったくの無名な選手
四中工に入学し より厳しい環境に身を置くことで 飛躍的に伸びた
3年の時には 念願の全国制覇を成し遂げた。
そして グランパスへの入団 オランダ留学 フル代表出場
彼の活躍は サッカーブームと相まって 華々しい輝きを放っていた。
そして 95年。五輪代表召集。
アジア1次予選 対タイ戦に出場を果す。
だが この1試合をもって 小倉のオリンピック代表出場は終わる。
「たら」「れば」
小倉ほど この言葉を思い浮かべる選手はいない。
あの怪我さえなけ「れば」。 あの合宿で無理さえしなかっ「たら」。
常に 「たら」と「れば」が 小倉に着いて回る。
それが不幸なアクシデントだったのか もしかしたら必然だったのか
知る由もないことだが あの日 小倉を襲った悲劇は
私たちのような ただ応援する側にとっても 大き過ぎるショックだった。
その映像は何度か見た。 練習中 DFと競り合い 着地をした。
「うわぁ!」と唸り声を上げ その場にうずくまる。
悔しげに何度も何度も芝を叩いた。監督が駆け寄るが 顔を上げる事はなかった。
着地のシーンをスローで流す。膝が逆側に曲がっていた。
右膝後じん帯断裂。
スポーツ選手として致命的な怪我。
五輪どころか もう一度ボールを蹴る事が出来るかさえ 危ぶまれるものだった。
翌年 96年。アトランタ五輪 日本はブラジルから奇跡的な勝利を上げた。
だが そんな喜びの場に 小倉の姿はあるはずもなかった。
数度の手術を重ね Jリーグでその姿を見ることはできた
だが 以前の輝きに戻る事はない。
いつしか いちJリーガーとして見るようになった頃
小倉が 札幌に来た。その喜びは今も痛烈に残っている。
輝きが戻る事はなくても 自分のチームに 自分の口から
「小倉」の名前を叫ぶ嬉しさを 感じずにいられなかった。
あのオグが 赤と黒のユニフォームを着て 目の前でプレーをしてる
試合前も 試合後も 「小倉」だけを叫び続けた。
幸せな1年間だった。
思えば。
小倉に抱いていた期待とは 20歳の彼の残像を 更に右上がりに伸ばし
ありもしない偶像を作り上げ 現実の小倉に押し付けていた
自分勝手な期待だったのかも知れない。
また 小倉自身も 偶像の中の自分を追い続けていたのではないだろうか。
あるインタビュー「目標・尊敬する選手は?」の問いに こう答えている
「いえ 僕の背中を追いかけています。頭の中のイメージのね」
思うように動かないジレンマを一番感じていたのは 小倉自身だ。
それでも人は彼に夢を見ていた。
いつか 復活してくれる。
いつかまた あのレフティモンスターは蘇る。
ずっとそう願ってきた。
もしかしたら今年。そう何年も思い続けた。
だが。小倉が引退した。
その華麗なデビューとは対照的に ひっそりと去った。
またひとつ 大切な火が 消えた。
怪我と戦う辛さを知らない私が言えるのは
ただひとつだけ。
お疲れさま。小倉隆史。