その歌が 流れた。
ラジオから 流れた。
静かな真夜中の部屋に。
今年3月 桑田佳祐ソロライブが沖縄で行われ その模様がラジオで生中継された
全FM局が同時に中継したこのライブは ラジオ局にとっても リスナーにとっても
また我々サザンファンにとっても 大きな出来事であり 嬉しいイベントとなった。
普段 ラジオを聴く事のない自分も この時ばかりはラジオを持ち出したのだが
この中継 時間の制約があったのか 2時間のライブの内 流れたのは1時間だけ
「他に何を唄ったんだろうか」 そんな物足りなさも 正直 少しは持っていた。
そうした気持ちが解消されたのは 1ヶ月半後のこと。
この沖縄でのライブを 「完全版」 として再放送したのだ
生放送では聴けなかった残りの1時間を ようやく聴く事ができた。
5月6日 25時。 真夜中のラジオから それは流れ始めた。
ゴールデンウィークも終わり 日常に戻ろうとするその夜。
小さなラジオをテーブルに置き 1時になるのを待った。何度も眠くなるが
寝られない もし寝てしまったら 聴き逃してしまったら そう思うと緊張が襲う。
カミさんは何度もラジオのチューニングをしていた
「ちゃんと 聴こえるかなぁ・・・」
心配気にツマミを回す。家は普段 音楽を聴かないため まともなオーディオがなく
唯一あったラジカセも この1ヵ月半の間で ラジオが聴けなくなっていたのだ。
「買いに行こうか」 と言いつつ 買いそびれてる内 当日となってしまったのである
するとカミさん どこからか携帯ラジオを引っ張り出して来た
「これでも大丈夫でしょう」 というそのラジオは 直径10cmほどの小さなもの。
試しに聴いてみたが 音は割れ チューニングも微妙な加減が必要なものだった。
それでも 今はこれしか頼るものはない。そう言い聞かせ 1時になるのを待った。
5月の札幌は 寒くはないが ストーブがいらない と言うほどでもない。
深夜になると少し冷え込んで 点けようかどうしようか迷った
だがストーブを点けるとファンの音が僅かにする。小さなラジオには そんな音さえ
妨げになるのだ。結局 ストーブは点けず カミさんが毛布を2枚 持って来た。
午前1時。小林克也の声から 番組は始まった。
音に集中したいため電気を消す。真っ暗な部屋でラジオの音だけが響いた。
始まりから1時間は3月に聴いたのと同じ。そして聴けなかった時間の曲が流れる
「ミス・ブランニュー・ディ」 や 「いなせなロコモーション」 などサザンからの曲と
桑田ソロの曲を織り交ぜながら ライブはアンコールに差し掛かった。
そして その時 どうしても気になる事があった
「エリー 流すかなぁ・・・」
カミさんがポツリと言う。そう心配する気持ちがよく分かる。
3月の生中継を聴いた後すぐ 「他に何を歌ったか」 を調べて この沖縄ライブで
「いとしのエリー」 を歌った事は知っていた。だがそれを流してくれるか心配だった
と言うのも。 ライブで 「いとしのエリー」 を しばらく歌っていない。
それがなぜか分からないが ここ数年 ライブで歌っていない。エリーと言えば
サザンの代表曲なのだが あえてなのか たまたまなのか 歌っていない。
その理由を探るのは難しいが 本人には きっと何かあるのだろう と思ってる。
例えばそう簡単に歌えない曲なのかもしれないし 今は歌えないのかもしれない。
だが今回 沖縄で歌った。それは本当に嬉しい事だったが 3月には聴けてない
もし聴けるチャンスがあるとすれば この 「完全版」 だけなのだ
だが 本当に流してくれるのだろうか。あれほど避けるように歌わなかったエリーを
沖縄で歌ったとは言え それはあくまでも 「流れない時間帯」 という設定である。
もしも桑田さんの中に 「唄わない理由」 があって それが大きいのならば
この放送で流す事もNGになってしまうのではないか そう心配していたのだ。
「エリー 流してくれるといいのにな」 そう答えてあげるのが精一杯だった。
アンコールの曲が進む
BEGINとの 「恋はお熱く」 と 「涙そうそう」 を唄い終える
そして ギターの音が流れる
ぶっきらぼうに 何の前触れもなく 唄い出す
いとしのエリー
一瞬 観声が止む。 そして ハッとするように 津波のように 歓声が押し寄せる。
ラジオの前のオレたちも 一瞬 固まった。カミさんと顔を見合わせる。
「流してくれた!」
その表情は 暗い部屋の中でも分かるほど 驚きと喜びに 満ちていた。
いち歌手の いち曲に これほど喜べるものは 他にないだろう
唄わなくなった事で 切望し それが叶い 喜びが溢れた。
テーブルの上の小さなラジオには 録音機能などなく それを留めるすべはない。
今 流れるこのエリーを 耳で 体で 心で 聴くしかなかった
だから聴いた。今度 いつ聴けるか分からない この曲を 全身で聴いた。
体のどこでもいい 留まってくれるように と願い その曲を聴いた。
「いとしのエリー」 が出たのは 俺たちが高校の時だった。
当時の音楽は歌謡曲とアイドル そして演歌が主流の時代。その中心はテレビで
人気番組のザ・ベストテンに出演する事が 売れた事へのステータスでもあった。
ただ その反発からか 松山千春や長渕剛など 「だからこそ出演しない」 という
歌手も多くいて ミュージシャンはテレビに出るか出ないかの2つに分かれていた
サザンがデビューしたのは そんな時代の真っ只中である
そして サザンオールスターズは テレビを選んだ。
テレビに出て人気を集め 職業としてミュージシャンに就いていたのだ。
歌手活動がテレビ主流の時代 サザンは毎週のように出演し 売れっ子になった
それは決して卑下される事ではなく 職業として捉えるならば正しかったのだろう。
実際 当時 サザンより人気があったツイストは 世良公則をメインにし 売れた。
次々と繰り出す曲は全てヒットし CMソングにも多く使われていた。
だが 「売れる」 とは 反面 「何かを失う事」 でもある。
その最も大きなものが “制約” である。 一度売れてしまうとイメージを崩せない。
同じ路線の曲を作り 同じ路線で歌う。それが 売れた人の宿命でもあった。
人気優先であるがゆえ 路線の変更は許されなかった時代なのである。
サザンオールスターズも同じだった。「勝手にシンドバッド」 で強烈なデビューをし
一気に注目を集めると 2曲目「気分しだいで責めないで」 を発表した。
2曲とも同じ路線 当時 持たされたイメージは “コミックバンド” だった。
何を言ってるか分からない歌と 意味不明な歌詞 そしてランニングにジョギパン姿
それはどう見てもコミックバンドである。歌謡曲が中心の中で それは際立ち
ジャンルとしては面白かった。だがミュージシャンとしては 短命な路線である。
当時の事で憶えてるのが ベストテンで桑田が歌いながら 「ノイローゼノイローゼ」
と連呼していた事。それを黒柳徹子に 「何がノイローゼなの?」 と聞かれ
「曲作りに追われてノイローゼです」 みたいな事を言ってたのを憶えている。
今になって分かるのは その時 様々なプレッシャーの中で 自分らの未来を
「どうあるべきか」 まで考えて 曲作りをしていたのではないだろうかという事。
このままでいいのか それとももっと違う自分を出すべきなのか そんな葛藤の中
もがきながら 次のサザンオールスターズを探し出していたのだろう。
また つい先日のテレビで 「デビューの時で 全て出し尽くしてた」 と言ってたが
本当にそうで 既に枯れた状態ながらも もがき 作り出していたように思う。
そして 出された 「いとしのエリー」
サザンオールスターズは 3曲目にして 路線を変えた。
それまでのコミックバンド風な曲調が すべて消えた 純粋なバラードだった。
正直言えば エリーが出た時の事は憶えてない。あまりに違う路線だったので
逆に印象が薄かったのだと思う。それまでは インパクト重視だっただけに
突然のバラードは違和感があったのだろう。その感覚は おそらく世間も同じで
確かエリー発表の当初は ベストテンのランキングも レコードの売り上げも
芳しくなかったように思う。ミュージシャンが路線変更をしなかった時代だから
やはり大胆な変化は 受け入れられなかったのかもしれない。
だが エリーは徐々にヒットチャートを上り出した。
切っ掛けが何だったのか分からないが 毎週 その歌をテレビで聴くようになる。
何度も聴いている内に 「この歌 良い歌だなー」 と思うようになった。
当時 高校生だった俺は 歌詞の意味など考えなかったが それでも しみじみと
何か心の深くに染み込むような そんな曲だった。何度も何度も聴く内に
いつの間にか エリーが好きになっていた。
真夜中のエリー。
午前2時を少し回った頃に その歌が流れた。
5月の札幌は まだ寒く 毛布に包まれながら 聴いた。
久しぶりに聴いたエリーは あの頃と少しも変わらず
それでいて ちょっとぶっきらぼうに始まり ぶっきらぼう唄っていた。
小さなラジオの音は もどかしく。
でも それが懐かしさを与えてくれた。
エリーが終わり 次の曲になる。
オレも カミさんも 黙っていた。
切ないわけじゃなく 悲しくもなく。
聴けて よかったな
そう言うと
カミさんは 小さく 「うん」 と言った。
窓の外を見ると 空が少し明るくなっていた。